催眠術の輪
「だから、確かに私が彼女を殺したのかも知れません。でも……」
「でも、どうした?」
テーブルの上の灰皿でタバコをもみ消しながらニヒルな三谷刑事が言った。薄暗い取調べ室である。そう訊かれた田中という男は記憶をたどりながら答えた。
「私は、催眠術にかけられていたんです。でなかったら人殺しなんてしません。私の意志じゃない…… マインドコントロールですよ」
「調子のいい事を言うな。可哀想に若い彼女は背中に鋭利なナイフを突き立てられて死んだんだ。お前が殺したんだよ」
三谷刑事が渋面をつくった。
「そうかもしれません。確かにそうですよ。でも動機も殺意も僕にはなかったんですよ。信じてください。強力な催眠術ですよ。僕は誰かに操られていたんだ」
三十代の平凡なサラリーマンである田中は必死な顔をしてそう言った。
殺された女性と田中との接点はなかったし、ただ路上で顔を合わせただけの関係だった。もちろん三谷刑事は田中の周囲で聞き込みを行っていたが、彼の評判はすこぶる良く、とても人を殺せるような人間ではないという事だった。
三谷刑事は暫らく考え深そうな顔で天井を眺めたすえ、こう言った。
「じゃあ、百歩譲ってお前の言う事が本当だとして、お前に催眠術をかけたのは、いったい誰なんだ」
「会社の同僚の山田さんです」
即座に田中が答えた。暫らくして裏を取る為、同僚の山田が取り調べ室につれてこられた。山田は田中に催眠術をかけた事を認めたが山田は懸命に弁解した。
「確かに私は田中さんに催眠術をかけたかも知れません……。でも」
「でも、どうした?」
「私は、田中さんの顔を見たら彼女を殺せという催眠術をかけろ、という催眠術を鈴木係長に、かけられたんですよ」
三谷刑事はちょっと驚いていたが、暫らくして今度は鈴木係長が取り調べられた。
「私は確かに、山田君に催眠術をかけたかも知れません……。でも」
「でも、どうした?」
「私は太田課長から、山田さんを見たら催眠術にかけろ、と言う催眠術をかけられたんです」
三谷刑事は困惑した。とても信じられないような事件だった。
もちろん太田課長も調べられたが、誰に訊いても私は誰それから催眠術をかけられたと答えるのだ。課長は部長に、専務は社長にという具合に……。
その後は数珠つなぎで、誰に訊いても『私は催眠術にかけられていた』と証言する。
こうなると収拾がつかなくなった。確かに田中には殺人罪が適用される。しかし田中に催眠術をかけ、コントロールした者も
あるとき三谷刑事は田中の留置所に疲れた顔のままやってきた。田中が心配そうな表情で刑事と面会した。
「田中。やっぱり催眠術の話は嘘っぱちだったんだな」
開口一番、刑事がそう言った。
「えっ…… そ、そんなはずはありません。信じてください」
田中の声が震えていた。
「全部でたらめだ。すべてお前の作り話なんだろ!」
田中の表情は苦渋に満ちていた。
「な、なぜそう言い切れるのですか?!」
三谷刑事が不気味とも言えるニヒルな笑いをつくってこう言った。
「なぜって、俺はそういう催眠術にかけられたんだよ」
「ええっ! 三谷刑事、いったいあなたは誰に催眠術をかけられたと言うのです?」
「署の……。おっと、これ以上は話せんな」
「まさか、そんな酷い事って……」
田中は言葉もなくその場にへたり込んだ。
おしまい
※あなたは意思決定する際にすべて完全に自分の意志だと言い切れますか?