魔術
この試験に合格しないと父がどんな顔をするか平野秀雄には予想がついていた。
今となるとろくに勉強もしないで遊んでばかりいた自分が恨めしかった。父は優秀な官僚で常にその眼は神経質な輝きを持って秀雄を睨んでいたし、代々傑出した人間ばかりを排出してきた家系は、陳腐で平凡な人間を蔑んでさえいた。
とにかくそんな訳でこの受験に失敗したらどうなるのか、痛いほど秀雄にはわかっていた。しかし答案用紙は白紙のまま、いつになってもそのままで、気が遠くなる一方なのだ。
――ああ、どうしたらよいのだろうか。
そこで秀雄は藁にも縋る思いで魔法の書をポケットから取り出した。コンパクトサイズの可愛さだったが、それは秀雄が珍しい古本や奇本集めの道楽の中で偶然、奇跡的に手に入れた魔術の書だった。
今の彼に出来る事と言ったらこれを信じる以外にはないのだ。彼はまず両目を閉じた。そして試験官に気づかれないように慎重にヘブライ語の呪文を小声で口ずさんだ。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム…… ハムイネス、イシス」
だが、その声を偶然に聞いてしまった学生がいた。
「やあ、秀雄じゃない? どうしたんだんだよ」
そう囁いたのは、小学生の同級生、飯島だった。
「驚いた、君、飯島だよな、飯島春夫」
秀雄は驚きながらも声に気をつけてそう言った。
「そうだよ、いやあ驚きだね。君はたしか平野だよなあ」
「そうだ、懐かしいなあ。よく僕の家で遊んだじゃないか」
「ああ、しかし奇遇だね」
「で、飯島、問題できそうか?」
「全然だめだ」
「本当かよ?」
「ああ、正直だめだ。俺はもうおしまいだ」
「じゃあ、秘密の合格方をこっそり君に教えるよ」
秀雄はそう言って、一部始終を彼に話した。合格にはもう魔術でも使う外はないという、実にオカルトチックな話であった。
「いいかい僕がエロイムエッサイムと唱えたら、君もそれを二回唱え、口に出さなくてもいいから試験の合格を強く心に念じるんだ」
「わかった、俺もやってみるよ」
「いいかい、疑ったらいけない。心から信じるんだ。それが魔術の秘訣だ」
幾分覚めた目で飯島が頷いた。
「エロイムエッサイム…… ハムイネス…」
* *
合格者の発表時、秀雄と春夫は途方にくれながら大学の掲示板を探していた。そこは広い空き地で掲示板どころか、大学がないのだ。校舎のある場所に大学が存在しないのだ。
「どういうことだこれは……」
頭をかかえて秀雄がそう言うと、飯島春夫がいかにも申し訳なさそうな声でこう言った。
「君の魔術は本物だったんだね。悪いが俺にはそれが信じられなかった。だから俺はやけくそで、あんな大学消えてなくなってしまえって念じたのさ……」
おしまい
※画像はO-DANからお借りしています