大きな望遠鏡
「だから、何が見えたというのですか?」
その質問に老博士は黙して答えなかった。
「どうしても世間に成果を発表出来ないとおっしゃるのですか?」
研究開発局の局長は真剣な顔をして博士に質問した。もう陽が沈み星々が輝きだした頃だ。研究所は小高い山の頂上付近にあった。大気の澄んだ場所だ。
「――まあ、そのう、うーん」
老博士がゆっくりと腕を組んで困った表情をしている。
「博士、あなたには説明義務があるのですよ。膨大な予算を投じられた最先端の望遠鏡はあなた個人のものではない。莫大な国民の税金が使われているのですよ」
局長の表情はいつになく硬い。
「重々に分かっております」
「ではなぜ―― 博士。あなたは確かハッブル宇宙望遠鏡など過去の遺物でしかない。とそうおっしゃいましたね」
局長が腑に落ちないという顔をした。神経質そうな細い眼が尚一層細くなった。
「はい。確かに言いました」
「本当は博士。予算だけ使ってハッブル宇宙望遠鏡には、到底及ばないお粗末な望遠鏡をお作りになったのではないでしょうね?」
博士が不満げな表情をする。
「断じてそんな事はありません。それどころか私の作った望遠鏡を使えば、見えすぎる程見えるのです。宇宙の彼方まで……。 深淵なる宇宙の神秘を望遠鏡は我々に語りかけてくるのです」
「それはどういう意味ですか? 博士詳しく説明してもらいましょうか」
博士が眼を静かに閉じた。まるで瞑想でもしているようだった。シルバーグレーの美しい髪が大きな窓から差し込む月明かりを反射して鏡のように輝いて見えた。博士は迷っているようだったが、やがて決心の表情が顔に表れた。
「では局長。あなたに実際に見てもらって、私がなぜ世間に発表出来ないと思うのか判断していただきましょう」
二人は部屋を出て展望デッキまで高速エレベーターを使って昇った。そこには巨大な架台に固定された大きな望遠鏡が設置されている。博士がハンドルを回して、のぞき口を局長の目の前に持ってきた。
「さあ、どうぞご覧下さい」
局長が恐る恐る望遠鏡を覗き込む。
「な、なんか変なものが見えますよ……。何か黒いものだ」
局長が不思議そうな表情で博士を振り返る。
「いいから、もっとよくご覧になってください。ピントを合わせて」
「――これは、どういうのでしょう? 誰かの後頭部でしょうか……」
「もう少しズームアウトしてごらんなさい」
「いや。たしかに誰かの後ろ姿だ…… あっ! 誰かが望遠鏡を覗いている」
「それは、局長ご自身です」
「いったいどういう事ですか……。 これは?」
「宇宙の彼方とはこの場所だったのです」
「わけもわかりません」
局長が再度博士を振り返った。とても信じられないと言う表情のままで。
「――この望遠鏡は宇宙の彼方を見据えています。いいですか局長、宇宙の彼方とはこの場所であり、ここが宇宙の果てでもある」
「どういう意味だか、私にはさっぱり解りませんが……」
「……」
局長は暫らく沈黙して試案していたが、やがて口を開いた。まるで夢遊病者のような表情だ。
「うーん、もし私の眼が確かならば、この事は内密にしたほうが良さそうだ。このことは極秘にした方が良い」
局長が囁くような重い口調になった。
「おわかりいただけたようですね」
老博士が微かな溜め息とともに言った。夜は深まりいつの間にかドーム上に満天の星空が広がっていた。それを二人はただいつまでも見上げていた……。
*
長い間、深淵を覗き込んでいると深淵もまた君を覗き込む。
おしまい
※画像はO-DANからお借りしています